アベシクリエイティブ制作秘話

作品づくりやロープ・身体表現、社会教育に関することを徒然に綴ります。

65.最近パフォーマンスイベントで心動いたこと

どうもアベシです。

新年度ですね。いろいろバタバタしますが、最近いろいろ手伝ったりしたイベントで他の人のパフォーマンスを見て感じたことをゆっくり残しておきたい思いました。

とりとめもない感じですが、たまにはよいでしょう。

 

・音に対するクリアな反応

いわゆる「音ハメ」というやつ。たしかに見やすい(わかりやすい)と改めて。

 

・出し惜しみしない

自分にできるジャンルを余すことなく発表してる人がいました。

・・・を見て、自分はビニルロープとかビーズロープとかもやってる(やってた)けど、変にかっこつけて触らないようにしてないかなあとか思いを馳せました。

 

・挑戦の過程を見せる

今の自分にできるかできないかギリギリのライン(の技)を自分のパフォーマンスタイムで攻めてる人がいました。

・・・を見て、やっぱりこれも「自分かっこつけてないか」と思いを馳せる系なんですが、どこかこれまで自分(周り?)は勝手に「パフォーマンスはこうあるべき」みたいなのに縛られてなかったか、と。挑戦というのはある意味で、なわとびの本質的なところではないだろうか、と思いを馳せました。

 

・オーディエンスジャッジ

ふと、上記のようなことが歓迎される雰囲気って、出場者がある程度顔見知りで、出場者の「そういう面」を見る眼差しみたいなものが明確ではないにしろ、なんか共有されてるからじゃないかしら、と。

大会の目的にもよるでしょうけど、個人的には、「一部の権力者」に判断を委ねるのではなくって、「自分たちが見たいものを自分たちで決める」みたいなのが好き。

 

・オーディエンスの態度

ふと話した人(出場はしてなかったパフォーマー)が「『パフォーマンスするのが楽しい』と思ってもらえるように、客席からも盛り上げようした」と言っていて、なるほどと思いました。

 

・はじめて数ヶ月の出場者も

大会に、そのスポーツ/パフォーマンスをはじめて数ヶ月の人も出場してました。コスプレして!

・・・を見て、自分(10年以上選手)にもできないことをやってる、と思いました。

その人いわく「コスプレすると、“自分”だとできないこと(失敗や恥ずかしい!)ができるようになる」とのこと。なるほど。

しかもその方、会場近くに住んでるらしく、前の大会を見て何かしたくなった、とのこと。一参加者の自分が聞いても嬉しいので、自分が主催だったら、感無量ですね。

 

・時には主催者、時には出場者

自分が関わるパフォーマンスイベント(つまりフリースタイルスポーツ関係ですが)、自分が主催する時もあれば、他の人が主催するものに出場することもあればお手伝いすることもある・・・・この流動性がいいなとふと思います。

教育的な話をすると、「支援する人/される人」「教える人/教えられる人」が固定化されていないというか・・・。

もっといろんな人にイベントを主催してもらって(自分は楽をして笑)、自分はイベントを楽しめるようになったらいいなとか思ってます。

 

・自分の「伸びやかな部分」も大切にしたいと思った。

最後に、これを強く思いました。

やはり自分の中に「発見/納得する」「今あるものに満足する」のと同じくらい(?かはわかりませんが)なわとび的に言うと、より速く/高く/たくさん/わかりやすくみたいな部分は確かにあって、そこをかっこつけて隠そうとしない、みたいな。

自分の「ロープする」パフォーマンスをより統合された姿にしたいです。

 

おまけ

・「会長」について

他の大会でスタッフしてる時のこと。そのジャンルのあるおじさまは「最近の若者は・・・」とか(聞いてもないのに)言う人もいて、このジャンルどうかなあとか頭をよぎりました。しかし、「会長」(出場してた)は、さらっと「運営おつかれさまです(ニコッ)」と言ってくれて「みんな、サイコー」とか言ってて、「これが会長の器か・・・」となりました。

自分も一応フリースタイルスポーツ愛好家の集まりである「フリースタイルな委員会」の「会長」ではあるので、会長らしくいようと思いました。

 

ダブルダッチは空間(装置)のことを言っている?

イベントでダブルダッチ体験ブースを僕ともう一人で行いました。

・・・3人じゃなく。つまり、ダブルダッチは「なわとび」というより(「なわとび」なんですけど)、ポールダンスのポールとかスラックラインとかジャングルジム、滑り台みたいな概念に近いんじゃないかとふと思いはじめました。

 

以上です。文字多いですね。でも、そのぐらい心動く状態にしておきたい気持ち。

 

それではよい心動きライフを。

ダブルダッチ体験ブースを行ったイベント『Show Your Style』

 

64.イベント運営から見えた防災・減災についてのお話

どうもアベシです。

先日、友人が開いたイベントで、設営や選手誘導係としてお手伝いしました。

 

そこで感じたことが、実は、防災や減災(教育?)に通ずるところがあるのではないかと思いを馳せたのでメモしておきます。(社会教育士らしいですね!自画自賛

 

正直、これまで自分は(幸いなことに?)防災・減災について、あんまりピンときたことはなかったのですが、なぜか今回は「イベントでけが人が出たり、うまくいかないこと」≒「災害とか避難がうまくいかないこと」みたいに身近に感じることができました。

 

それではどんな場面で感じたかを書いてます。どうぞ。

 

①選手の召集・誘導の場面に見る地域コミュニティ

出番前に「○○さん、(ステージ横の)ここに居てください」と呼び掛けて、来ているか確認する係でした。

はじめは、「○○さーん、いますかー」などと呼び掛けていたのですが、演者と演者の間も音楽が流れていて、声があんまり通りません。(これに関して思うところはありますがまた今度...)

そこで、力を抜いて、他の選手に「○○さんってもう来てますか?」と尋ねてみると、みなさん、「あの人だよー」と快く教えてくれました。

出演者同士がなんとなく、顔と名前を知っていることで、出番に演者がいないというのを少ない労力で防ぐことができました。

 

これが避難場所での点呼、のように思えました。

 

そういえば、僕らの受付を通らずして、客席にから直接ステージに行っちゃった人もいました・・・これは・・・正規の手続きを踏まずに被災現場に入ったボランティア、みたいなかんじでしょうか?(こじつけ)

 

②脚立やパーテーションの使用に見る危険個所

当日、設営でまあまあ高めの脚立を使用しての設営があったり、(練習スペースとを分ける)パーテーションを立てたりがありました。

・・・脚立が正しい使い方で使われていなかったですね。またパーテーションも1回倒れて、倒れた先の人に当たっていました(けがはなかったようですが・・・)。

高所や位置エネルギーを持ったモノの扱い(「こっち向きに力を加えたら倒れやすいのでこうしよう」みたいな)のをちゃんとしなければと、身が引き締まりました。

 

こういうのって、単に見栄え(「これは直線にそろえなきゃ!」)というより、素朴に物理なんですよね。あ、これ倒れそう・・・みたいな。地域の危険個所マップづくりとかに通じているように思いました。

 

③アンケートに見る情報へのアクセス

スタッフとして、アンケートの記入のお願いも頼まれまして、渡されたのが・・・QRコードが書かれた紙でした。ネットで書いてもらった方が集計が楽ではあるんでしょうが・・・これではあんまり集まりませんね。(みなさん席に座って見るタイプのイベントでもなかったし)

 

これ、例えば避難場所で「みなさんに必要な情報がここのQRコードから読み取れまーす」みたいなのを想像しました。高齢の方にとっては難しいのかも?みたいな。

 

そもそもの前提

今回のイベント運営でまさに①で、「これが・・・地域コミュニティ()!」となりました(謎)。

そこで思いを馳せたのが、そもそも、なぜみんながイベントを滞りなく進行したかったり、安全にしたかったり、情報を受け渡ししたいと思えるのかという前提について。

それは、楽しいことやワクワクすることを通してつながっているからなのかなあ、と。

これを「地域」や「日本」、「世界」に置き換えると・・・なんなのでしょうね・・・。

 

補足:個人的に感じた構造的なもの?

補足して、②でそもそもなぜ(まあまあ高い)脚立が必要だったかと言うと、協賛企業のロゴをステージの背景にちょうどよい高さで、張るためでした。
ボランティアのスタッフに、特に説明もなしに「これやっといてー」みたいな・・・。

「人間の身体」と「お金」・・・・個人的にはいろいろと考えさせるこの世界の構造のようなものを感じました。

最近、コンテンポラリーダンスの公演で客席がぎゅーぎゅー詰めになっていたり、こういうのに敏感なのです。終わり。

 

それではよい防災・減災ライフを。

 

 

63.最近物語を楽しめるようになってきたというお話

どうもあべしです。

タイトル通りなのですが、最近、物語を読めるようになってきました。物理的には読めてたんですが、楽しめるようになってきたといいますか。そこらへんの心境をまとめたいと思います。

 

 

きっかけ

観に行く予定のダンスの公演が作家のミヒャエル・エンデの作品に着想を得たということで、同じくミヒャエル・エンデ作の『モモ』を読んだことと、映画『PERFECT DAYS』を観たことが大きいです。

 

・・・正確には、作家や監督のインタビューを読んだ/見たことがより大きいでしょうか。

ミヒャエル・エンデ氏&映画監督のヴィム・ヴェンダース氏が全く同じことを言ってるわけではないでしょうが、僕は「つじつま合わせや後付けじゃない、世界の構造から来るストーリーがある」(のを辛抱強く見つける)みたいな感じを受け取りました。

 

ものごころついた時から、“少年漫画”に慣れている?自分は、「能力」や「過去編」に慣れきっていたのですが、上記のことをきっかけにお話・物語は、“そういうの”だけじゃないと思うようになったのです。

 

自分の暮らし(なわ)との関わり

人生もそうなのかもしれませんが、物語はまさに、「過程を楽しむ」という要素があるなあと感じています。(そして、これが自分が今までできていなかったなあと感じる部分)

 

例えば、物語で「魔女の家」が出てきた時に、「どんな大きさ?素材?」「庭ある?」とか「ペットいる?」みたいなのを想起するとか。

 

これまでの自分は「はいはい、主人公が魔女の家に行ったんですね(流し読み)」していました。(ビジネスライクとでも言いましょうか)

 

なわ(とび)でいうと、「はいはい、前跳び(O)したのね」みたいな。それが「どう跳んだ?もしくは越えた?」「そのとき腕は?」とかを気にするみたいな、そんな感じ。

 

また、作家や監督のお話に照らし合わせると、自分は、最近は、いわゆる(レベルの高い?見栄えの良い?)“技”みたいな「“強い”物語」というよりも、“構造”(重力?遠心力?人体構造?)から来る動きみたいなのを探求してます。

 

参考書との違い

そんな訳で物語と参考書との違いも感じてます。

まさに映画『PERFECT DAYS』で主人公の平山さんが1冊ずつ古本を買っていましたが、確かに物語は1冊ずつしか読めないと感じてます。

 

すべての文章が本番で、流れ/順番があるイメージなので。

 

一方、参考書は「結論→具体例」みたいな。目次を見て好きなところから読み始められるみたいな。

参考書的には「結論:王子がドラゴン倒した」なのですが、物語的には、「どんなドラゴン?王子?」「どうやって倒した?」とかが大事、みたいな。

 

まとめと今後の展望のような何か

確かに、まさに人生も結論を言うと「生きて死んだ」でしかないので結論だけを重視しすぎるとちょっぴりさびしいかも?

 

今後は、僕自身も“過程を楽しむ”眼差しを共有するような(ロープ)パフォーマンスなり作品を作っていきたいですね。

 

というわけでみなさまもよい物語ライフを。

 

 

 

最近はまってる魔法の森シリーズ

 

62.ロープ操術とはなんぞや

どうもアベシです。

最近、「ロープ操術」がだいぶ体系化?できてきたので、いったん現段階のものを整理しておきたいと思います。

言葉の響きからもわかるように今話題の「呪術廻戦」から多大な影響を受けています。

 

最近「あなたから思想を感じる」と言われることがしばしばあって、確かにロープ(を扱うこと)そのものにいろいろ乗せてるものはありますが、それはまた次回。

 

今回は体系図?をまとめるのにとどめておこうかなと思います。それではどうぞ。

 

 

ロープ操術って?

文字通り、ロープを操る術式です。

僕自身、なわとび(ジャンプロープ)やロープフローを経験している以上もちろんそれらにも影響を受けていますが、“それ”だけじゃなくもっと広く(多様に)ロープを動かしているため、「ロープ操術」と呼ぶしかないような感じ。なんかかっこよいし。

ニュートラル・順転・反転

「操術」というと原作でいう、夏油傑の「呪霊操術」を想起すると思いますが、五条先生の「無下限呪術」の方も参考にしています。個人的に、「よくわからん(すごい)術式」というのに衝撃を受けたのです。(自分に投げられた物体をオートで識別するとか!生身の体で!)

 

・・・というわけで、僕は(僕の)ロープ操術は次のように整理してます。

 

  1. ニュートラルなロープ操術:伝える/伝えられる力
  2. 術式順転「むすび」:つなぐ力
  3. 術式反転「くぎり」:分ける力

 

これら、日常生活でロープ持ってない時も使ってる気がします。

 

虚式の発見

原作では、順転と反転を合わせて、新たな(仮想の質量を押し出す)術(虚式)を生み出してました。

・・・というわけで、僕もふとやってみたら・・・できました

教えてくれた方の名前ともかけています。

↑こんな感じ。

今後の展望

上記の虚式を発見してから「想像できることは、できる」気がするようになりました。

 

ロープ操術を極めていくと、環境、重力、物理法則/社会の法則?みたいなものと一体になっていく気がするんですよね。

そこで、この世のすべての力を統合するという超弦理論超ひも理論)を組み込んだ「超弦呪術(※呪いません)」にするのが目標です。

 

大きく想像しときたい



おまけ:「ロープ操術」と呼ぶことでの効果(主観)

自分がやっていることを無理に、なわとび・ロープフローの枠組みに当てはめなくてもよくなって、いろいろ楽になりました

「なわとびみたいな感じで・・・」とかではなく「『ロープ操術』やってます」みたいな。

 

またしばしば聞かれる「なぜ(ロープなの)?」という言説を無効化できる気がしてます。

というのも、その質問は、元ネタ呪術廻戦でいうと「なぜ夏油傑の術式は呪霊操術なの?」と聞くのと同じなので。わからんですよね。

 

ただちょっと「操術」と漢字を変換するのがめんどいくらい。

 

そんな感じ。

 

それではよい術式ライフを。

 

 

 

61.民族音楽との即興コラボをしてみての感想

どうもあべしです。

先日、とある文化イベントにて、民族音楽サークル?の方が演奏されている中、飛び込みで“ロープをやる”機会がありました。

今回はその経験を通して、自分の中で発見があったので書こうと思います。

 

 

即興コラボの経緯

会場にちょっとしたスペースがあったので、民族音楽サークルの方が演奏してる横で、ロープしてました(自分は練習する時、音楽をかけるというより、そこらへんの音・音楽を利用することをよくやってます)。すると、イベントスタッフの人に、「あちら(サークルの方の前)でやってみましょう!」と声をかけられました。

 

ちょっと恥ずい&演奏されてる人より自分が目立つのはどうかなあと思って、ためらいました。が、修行のつもりでやってみました。すると、自分も楽しかったし、通行人も足を止めてくれていたし、音楽サークルの方も嫌そうな顔をしていなかったので、まあやってよかったのかもしれないと思うに至りました。

 

ロープを止めて揺れてる人
発見1:自分の“ロープ(なわとび)する”の変化

ここ数年で運動の強度としてはだいぶ落ちてます。ただゆっくり動いたり、止まったり、跳んだり跳ばなかったり、以前に比べればだいぶ心地よく動き続けられるようになってきたかなあ、という印象。

 

発見2:空間として?

結果的に、その空間にとってプラスかどうかが大事で、自分が目立つとか目立たないとかはあんまり重要じゃないのかしら、と思うようになりました。

 

今後に向けて?

「自分が目立つか目立たないというよりも空間にとってどうか」を考えると、自分にとっては「スゴイ技ができるか」よりも「環境に対して反応できるか(刺激し合えるか)」が大切かも?
今回も演奏家のリズムに合わせて、ステップを踏んでみると反応があった印象。

庶民?が軽やかにスキップするような音楽のイメージとかも表せるロープダンサーになりたいですね。

 

それではよい即興コラボライフを。

 

 

 

60.「ブラック」を防ぐには「ローカル」が必要なのではないかというお話

どうもアベシです。生きてます。最近3Dプリンタを買いました。
前に(職業用)ミシンも買ってるので、これで扱える素材が、紙+布+プラスチックに増えました。あとは、木材、金属、食料とかでしょうか(どこに行き着くのでしょう)。

 

「ものづくり社会教育士」などと考え中。一方でなわを使って体も動かすし・・・自分を一言で言うとなると難しい・・・。

 

 

さて、今回はやっとブログを書く余裕ができたので、ビッグモーターの件とかを受けて考えてたことを書きたいと思います。

 

僕の関心は

「どういう要素があれば、あんなこと(社員をないがしろにしたり、不正をしたり)に歯止めがかかるのか」

 

自分の商店街地域での労働経験も踏まえてまとめておきたいと思いました。

 

 

結論から言うと、タイトルにある通り「ローカル」の視点・要素が必要ではないかと考えてます。

 

「ローカル」・・・いろんな意味がありますが、今回で言うと、

仕事・働く人と、その地域やその人の暮らしとがある程度接続されていること、でしょうか。

 

極端に言うと「ご近所さんにひどいことできますか?」ということですね。

「会社員でもあるけど、地域や家庭の人間でもある」と言われていることでもあります。

当たり前と言えば当たり前ですが。

 

 

僕自身、商店街地域で働く中で、例えば雑談の中で「近所のとこでずーっと車検出してる」とか子育てや介護の話を聞いたりする中で、自分が「会社員」であった時より、「ローカル」みを強く実感しています。

 

 

こう書いてみると自分の中で、ブラック校則とか

「なぜ、組織になるとそんなことができるのか」みたいなのがずっとテーマにあるのかもしれません。

 

「預かった車、ちゃんと点検しました⭐︎(嘘)」

「ご主人がノルマを達成できてなかったので“指導”しときました!」

「あ、お子さんの下着(とか靴下)の色は〇〇でお願いしまーす」

(↑こういう校則、実際に体験済み)

 

とか、こういったことを

 

あなたは個人として近所の人(仮)に、言えるのか?(言えないようなことならするなよ)と。

 

 

ビッグモーターだと立地も郊外で、街路樹にしても(人にしても)「地域の」公共物という意識を持ちづらい環境であったのかもしれません。

(ふと。思い通りにならない社員が居場所をなくす会社。その会社(組織)自体が「社会」に居場所がなくなるという皮肉・・・?)

 

 

じゃあ具体的にどうすれば「ブラック」なものに、「ローカル」の視点を取り入れられるかは・・・今後の課題。

 

考えていくと、地域というのはその土地に「縛る」とか「煩わしい」とかいうイメージもあるけれど、一方で「地域の人が見てる」(お天道様が見てる)的な歯止めの役割も一定あるのかも?

 

ビッグモーターの件を受けて、自分は組織や地域とほどよい関係を築ける人間になりたいなと思ったのでした。

 

それではよいローカルライフを。

 

 

 

59.郡上おどった感想〜カルチャーと身体と〜

どうも、あべしです。

昨年に引き続き、今年も台風絶対(地理的に)避けるマンになることができ、先日、郡上おどりを体験する機会に恵まれたので、忘れないうちに感想書いておきます。

 

 

 

カルチャー的な

第一印象「“クラブ”みたい」と思いました。音楽がかかって(演奏されて)、大勢の人が踊って・・・夜明けまで。

とても現代的?というか普遍性?を感じました。

 

浴衣や下駄(衣装)と、決められた振り付け・・足を踏み鳴らす下駄の音での謎の一体感・・・「若者は(?)“これ”があるのに、ハロウィンもするのか・・・」などと思いを馳せたりもしました。

 

体の動かし方について〜振り付けとか下駄とか〜

踊りは現地で見よう見まねでなんとかしました。

全貌を把握したわけではないですが、ダンスや音楽でいうの8カウントや小節という捉え方ではないのかしら?と。個人的には文字通り「体で覚える」という印象でした。「右足の次は左足を出したら心地いい」みたいな。

 

そして、自分は途中までサンダルで踊ってたんですが、「これでずっとやってると、サンダルの底が(地面との摩擦で)なくなる・・・」というのと、やはり音を出したいという思いにかられ、現地で下駄を購入しました。(足を踏み鳴らす、ような動きも多いのです)

 

物心がついて、初めて?下駄を履いて移動したかもしれません。足がめっちゃ疲れました。

 

買った下駄

なわとびやってると他の人から「なんでそんなに長い時間練習できるの?」などと言われることもありますが、今回は僕の方が「なぜ下駄でそんなに動き続けられる・・・?」と他の人に思う感じでした。

コロナ禍ぐらいから、自分はずっと「地に足をつけたなわとび(矛盾)」を志向してきた部分もあり、ここらへんに何かヒントが隠されていそうな気がしてます。

 

総じて、これまで自分が見てきた・してきたダンスや音楽、地面の踏み方は世界の一部にすぎないかもしれないなどとぼんやり思ったイベントでした。

 

おわりに

友人は朝の5時(最後)まで踊ってましたが、今回自分は下駄で疲れすぎて、途中でリタイヤ・・・朝まで踊りきったらまた見える境地があるのかないのか・・・。

 

最近はAIの話題も多いですが、(そうしたものがどれだけ発展しても)どう考えても「身体」はある、と思わされますね。

 

それではよい盆踊りライフを。